ティナ・ターナーの”今”経歴と功績をたどって、出演映画はマッドマックスサンダードーム

人物

ロックンロールの女王と称されたアメリカの歌手で女優のティナ・ターナーさんが2023年5月24日、スイスのご自宅で亡くなられた事が発表されました。83歳でした。 長きにわたり音楽や映画で活動を続けてこられたティナ・ターナーさんへの追悼の意を込めて経歴と功績をたどります。

この記事でわかる事
ティナ・ターナーの”今”経歴と功績をたどって
ティナ・ターナーの”今”出演映画はマッドマックスサンダードーム
ティナ・ターナーの”今”近年の活動と最期

ティナ・ターナーの”今”経歴と功績をたどって


ティナ・ターナー/本名 アンナ・メイ・ブロック・バーク  Anna Mae Bullock-Bach

誕生 1939年11月26日
死亡 2023年5月24日 享年83歳

経歴と功績をたどって デビュー以前

ティナ・ターナー(本名アンナ・メイ・ブロック・バーグ)はテネシー州ヘイウッド・カウンティのポインデクスター農場で生まれます。幼少期はバプティスト派の信者で厳格で宗教心の強い父方の祖父母に預けられ、聖歌隊の一員として歌っていました。

母親が父親との関係が悪くなった事で突然出奔、その後ティナが13歳の時父親は再婚し、姉とアンナは父親と離れて祖母と暮らすようになりました。

決して平穏ではなかった子供時代を過ごしたアンナですが、ハイスクールではチアリーダーのチームとバスケットボールチームの両方に入り、友人たちとの交流に努めました。

アンナが16歳の時、祖母がなくなり母親と暮らすためにセント・ルイスに移動します。

1958年―――アンナは高校を卒業後、病院で看護師の助手として働き、看護師として働くことを夢見るようになりました。この頃から、姉とアンナはナイトクラブに出入りするようになります。

ある時「クラブ・マンハッタン」でアンナは初めてアイク・ターナーと彼のバンドである「キングズ・オヴ・リズム」が演奏するところに遭遇し、バンドの音楽とアイクの才能に惚れこんでしまいました。

経歴と功績をたどって 歌手としての経歴

1958年ギタリストで後の夫となるアイク・ターナー率いるバンド「キング・オヴ・リズム」の楽曲「ボックス・トップ」にバックコーラスとして参加しデビューします。当時は「リトル・アン」という名前で活動。

 

元々、「キング・オヴ・リズム」にはリードボーカルがいたのですが、レコーディングに来なかった為、代わりにアンナが歌う事になりました。表には出ないはずでしたが、このテープがR&Bのレーベルの社長ジャギィ・マレイの耳に入ります。マレイはアンナの声を気に入ってテープを高額で買い取ったのでした。

1960年「アイク・アンド・ティナ・ターナー・レヴュー」の一員としてティナ・ターナーの名前でデュオとして活動を始め、いずれもティナ・ターナーが作曲した曲がヒットを飛ばす。

 

アイクはアンナに「ティナ」と名付けます。これはアイクが好きなテレビ番組の登場人物にちなんだ名前で、ターナーとしたのはアンナが逃げないように、またアンナだけが有名になるのを防ぐ為でもあったそうです。アイクは嫉妬深く、肝の小さい男でしたね。

1963年アイク&ティナのショーは、ロックの歴史ライターが「他のどのバンドよりも熱く激しくタフ!いまにも爆発しそうなバンドのひとつ」と書くほどの評判を打ち立てました。
1966年ローリング・ストーンズのイギリスツアーの前座を務める。
1968年ラスベガスでの単独公演が決定。観客には様々な有名人が観に集まりました。

 

デヴィッド・ボウイ、スライ・ストーン、ジャニス・ジョプリン、シェール、ジェイムズ・ブラウン、レイ・チャールズ、エルトン・ジョン、エルヴィス・プレスリーといったそうそうたる面々がアイク&ティナのショーを見にきたそうですが、伝説の人々が勢ぞろいですが、そんな人たちの前で歌うなんて、相当肝が据わっていないとできる事じゃあありませんよね。黄金時代ですね!

 

1969年ローリング・ストーンズのアメリカツアーの前座まで務め、ますます名前が広がっていくのでした。
1970年エド・サリヴァン・ショー(アメリカ・CBSで放送されたバラエティ番組)に出演

 

 

エド・サリヴァン・ショーは日本で言うところの「徹子の部屋」みたいな番組

1971年
1975年
この間、グラミー賞獲得、ビルボード新曲100のチャートで第22位まで上昇するなど数々の成功を納めます
1975年アイク・ターナーはアルコール依存症とコカイン中毒に陥り良質な音楽を作れなくなっていきました。アンナに対して暴力を振るうようになり殴り合いの喧嘩をにまで発展します。
1975年ロック・ミュージカル「トミー」に気難しい女王役で出演しました。ですが、そういった華々しいキャリアの陰には家庭内のトラブルが潜んでいたのです。

 

 

経歴と功績をたどって 離婚とソロ活動

1976年アンナはアイク・ターナーによる家庭内暴力から逃れるため、36セントとクレジットカード1枚もって逃げ出しました
1978年アイク・ターナーとの離婚が成立。
1980年ソロ・アーティストとしての活動を通して経歴を積み上げ再びヒット曲を連発!
1981年ニューヨーク・リッツでの好演のあと、ロッド・スチュワートに雇われロッドのヒット曲をデュエットしたり、全米ツアーの前座を務めました。その後もローリング・ストーンズの前座を三度務めました。
1982年再びリッツでライブを行い、結果デヴィッド・ボウイの後押しを得て、キャピトル・レコードとの契約を結ぶことになりました。
1983年アル・グリーン(1971年)の 「レッツ・ステイ・トゥゲザー」をカバーし発表!

1984年ソロアルバム「プライヴェト・ダンサー」が世界中で大ヒットを飛ばし、収録曲の「愛の魔力」が後の自叙伝的映画のタイトルに使われました。

経歴と功績をたどって ソロアーティストとしての成功

1983年にアル・グリーンの 「レッツ・ステイ・トゥゲザー」のカバー曲を発表し、この曲はいくつかの国でチャート入りを果たしました。アメリカビルボードの「最新のダンスクラブソング」のチャートと「最新の黒人歌手シングル」のチャートでは、上位10位に入ったのです。

この事はソロアーティストとしての地位を確立するものでした。その後も次々とヒット曲を生み出し「驚くべき復活」とまで呼ばれる復活劇となりました。

1985年にはなんと、4つものグラミー賞を獲得するなど快進撃を続けたのです。この頃には多くのアーティストが参加し、世界的大ヒットとなり今でも愛され続けている「ウィ・アー・ザ・ワールド」の録音にも参加しています。

 

ティナ・ターナーの”今”出演映画はマッドマックスサンダードーム

経歴と功績をたどって 女優としても活躍

1985年「マッドマックス/サンダードーム」ではメル・ギブソンと共にW主演を務めています。アウンティ・エンティティ役で出演しアマゾンの女王のように容赦ない支配者を好演しました。ティナは映画用に楽曲も二曲提供、そのうちのひとつが「ウィ・ドント・ニード・アナザー・ヒーロー」

 

まさかこの映画にティナ・ターナー!?と公開当時は驚愕しました。悪役なのに懐が深い、というかカッコよかったですね。インパクトがすごかった!

ティナ・ターナーはこの映画での演技を評価され「全米黒人地位向上協会」から主演女優賞を与えられました。この映画に提供した2つの楽曲のうちの1つでグラミー賞の「最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞」を受賞しています。

 

1993年「ラスト・アクション・ヒーロー」での役柄はロサンゼルス市長。

 

ティナ・ターナーさんが「ラスト・アクション・ヒーロー」に出演している事は見逃してました💦何回も見たのに、迂闊の極み…。

 

ティナ・ターナーの”今”近年の活動と最期

近年の活動

1991年52歳で7年ぶりにアメリカツアーを開始し、ツアー終了後はスイスに移り、市民権を取得。ドイツの音楽業界人のエルヴィン・バッハ氏と結婚したこととも関係あるようです。二人の出会いは古く、1985年までさかののり、27年を共にした後ついに結婚となりました。
1995年ターナーはU2の曲「ゴールデンアイ」を引っ提げて戻ってきました。この曲は同じタイトルのジェームズ・ボンド映画で使用され成功を収めました。
1996年ワールドツアーを開始し1997年に終了後は再び急速に入りました。
2000年60歳の誕生日を前にダンス音楽を収録したアルバム「24/7」を発表、そして発売記念ツアーを開始。
このツアーはこれまでにティナ・ターナーが行ったツアーの中でも最も成功し、最も収益を上げたツアーとなりました。この後に引退することを発表しました。

 

2008年グラミー賞の授賞式でビヨンセと一緒に出演し、「プラウド・メアリー」を披露。その場でビヨンセはティナが「道を切り開いてくれた」と述べ、大先輩に感動的なオマージュをささげました。正式に復帰して「ティナ!50周年記念ツアー」10年ぶりにツアーを開始、興収は1.3億ドルを記録し大成功を収めました。

 

2012年72歳の時、ジョルジオ・アルマーニの北京でのファッション・ショウに随行しています。

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